高野山             

2009年10月24日


弟の37回忌で、高野山へ行ってきました。

数年前、地元の木こりさんから、ウサギコウモリが寺院に住み着いているが、近いうちに解体する、興味があれば見に来ないか?、って誘われ、来たことがあります。その時はいわゆる観光はしませんでした。

今日は何となく、電車で来てみました。南海高野線は、橋本から単線になります。カーブばっかりで、車輪がキーキー鳴きっぱなしです。終点からは、ケーブルカーになります。



ケーブルカーの終点が高野山駅になります。ここから本山まではバスになるのですが、地図で見ると、距離は2kmくらい。わざわざバスに乗ることもないだろうと思っていたら、地図の道はバス専用道路で、徒歩禁止、って書いてます。歩きたければ、別の道。けっこう回り道で、歩道も付いてない普通の車道をてくてく歩きました。

で、大門に到着。ある意味、ここが高野山の始まり。バスではわからなかったでしょうね。





金剛峰寺です。
屋根の上に樽が乗っていますが、なんでしょうね。まじない?????雷よけ?


金剛三昧院の、国宝の多宝塔です。


だから何?、って言われそうですが、桜の木からマキとシャクナゲがはえています。


高室院で供養をしてもらったあと、奥の院へ。


奥の院は、私が説明するより、某HPの説明を読んでもらう方が早いかも。

「一の橋口から東へ広がる一帯も広い意味で「奥の院」と呼ばれる。御廟までの約 2kmの石畳参道の両側には、大小、新旧、数十万基とも言われる石塔が立ち並び、高野山を訪れる多くの人々は、この参道 を通って弘法大師御廟所へ参詣するのである。参道は杉と高野槙の見事な並木道で、推定樹齢800年の平安期から残ってい る樹もあれば、新しいものもある。風化して姿も判らなくなった地蔵菩薩や、元は何かもうわからなくなったような石塔もあ る。これらの石塔は、時代、階層を越えた人々の墓碑で、隙間無く建てられ静かに並んでいるが、メインの通りは圧倒的に武 将達の墓である。それも秀吉以降の、戦国時代から江戸時代にかけての大名達の墓所が多い。ここには敵味方の区別なく祀ら れているが、これだけいれば「関ヶ原の合戦」をここで行えそうである。(全墓標の約40%が大名墓と言う) 」


「奥の院は、地表と川と橋の三重構成になっており、橋を渡ってからは死後の世界で、その下を流れる川を「三途の川」に見立 てているのだという。皇室・貴族関係をはじめ、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)などの宗派をこえた各宗派の開祖、文人、 庶民にいたるまであらゆる階層の人々が供養塔を建立している。各種団体も、戦死者・戦没者の供養塔を建て、高麗陣敵味方 供養碑(秀吉朝鮮出兵時のもの)、空挺落下傘部隊供養碑、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古・5民族の墓、ああ同期の桜供養塔、 独立工兵第15聯隊の墓、英霊塔、大平洋戦争の犠牲者を祀る英霊殿などが並んでいる。動物の供養塔もあり、白蟻の墓、フ グ供養塔、犬や猫や蚊や虫などの「交通事故精霊の碑」などというものまであるのだ。全山が、あらゆるものの供養塔で埋め 尽くされている。」

高野山は全山真言宗ですが、宗教と関係のない(?)他の戦国武将の墓も並んでいるんですねえ。なんでそうなのか、よくわかりません。


いわば、企業ものの墓。聞いたことのある企業が、ずらっと並んでいます。


見ての通り、福助に、上島珈琲。


(左)日産です。
(右)落書塚、だそうです。


家康の次男、だそうです。


(右)誰だっけ?加賀藩だったかな。


豊臣秀吉。


(左)織田信長と、筒井順慶が並んでいます。他と比べて、小さい。何で?
(右)初代、市川団十郎、って言われても、よくわからないけど。


赤穂浪士に、浅野内匠頭。


墓の真ん中の石の、その真ん中に亀裂があるのがわかるでしょうか?何度補修しても亀裂が入るそうです。織田信長の呪い、と言われているそうです。
これだけ戦国武将の墓が並んでいると、盆なんかに霊が帰ってくると、戦国時代そのままの戦いが起こっているのでしょうか?歴史の好きな人にはたまらんでしょうね。


これは、ビルマ戦没者の供養らしいです。太平洋戦争だけではなく、高麗戦争の戦死者を供養する墓もあります。


私の小学校では、小学5年で林間学校と称して高野山の宿坊に泊まり、夜は肝試しということで、3,4人のグループでお墓の中を歩いて、指定された場所までたどり着くと、隠れていた先生から何かをもらって帰る、と言うのをやっていたように思います。今は、そんなのは無いそうです。



高野山からの帰りは、バスも乗らず、ケーブルカーも乗らずに、極楽橋まで歩きました。
そこから先は、さすがに電車で。

ゆっくり本も読めるし、帰りは疲れると熟睡できるし、電車の旅もいいもんです。