船の科学館 その2           


2009年6月6月


屋外の展示物です。詳細はこちらを見て頂ければわかると思います。









この施設、笹川良一の息が、かなりかかっているようです。また、そのため資金が豊富で、これだけりっぱな施設になっているのでしょうか。展示自体は別に「偏った」印象はありません。大人から子供まで、十分楽しめます。




展望台から見た、「宗谷」と「羊蹄丸」。陸に揚げるのじゃなく、こういう展示方法は生きている感じがしていいですね。管理はたいへんでしょうけど。




"宗谷"は昭和13年耐氷型貨物船として建造され、太平洋戦争を経験。その後は引楊船、灯台補給船となり、昭和31年11月からは日本初の南極観測船として昭和37年4月まで、6次にわたる南極観測に活躍しました。その後昭和53年退役するまで海上保安庁の巡視船として活躍、昭和54年5月から、船の科学館前に係留され永久保存展示されています。

だ、そうです。

調べてみると、日本財団のこんなページが出てきました。「宗谷」の歴史がわかります。人の運命と相通ずるようなところがありますね。当初の目的からはずれた誕生で始まり、戦争を生き抜き、引き揚げ船、さらにいろんな仕事に従事して、南極観測船としての使命を終えたあとにも、次の任務に付き、最後は静かにここで余生を過ごしてる感じです。

本も何冊か出ていると思います。ぜひ、探してみて下さい。


南極観測の一次隊の人たち、犬たちが何十年も前、ここでしばらくの時を過ごし、日本国民全員の期待を背負って南極に向かっていったと思うと、感激せざるを得ません。その同じ船に、時を経て私が立てるとは。








(右)確か、風呂は海水じゃなかったっけ?






南極の、実物の氷です。



タローとジローも、ここで何ヶ月間を過ごしました。




ついで、こちらは青函連絡船、「羊蹄丸」です。大学卒業後、羊蹄山を見ながら2年間を過ごしていましたので、乗ったことはないけど名前には親しみが非常にあります。


明治41年3月、北海道と本州を結ぶ鉄道連絡航路として開通した国鉄青函航路は、昭和63年3月青函トンネルの完成に伴い80年の長い歴史を閉じました。
"羊蹄丸"はその連絡航路に昭和40年に就航して以来22年7ケ月にわたって大役を果たし昭和63年3月13日、最後の上り旅客便でその任務を終了しました。その後、船の科学館に移籍し、平成8年3月装いも新たに、船の科学館前水域において一般公開となったのです。

だ、そうです。
北海道に数年間住んでいましたが、当時は電車というものに全然興味が無く、帰省は飛行機、あるいは車(陸路数回、残りはフェリー)ばっかりでした。たしか、車載フェリーは航路が違っていたように思います。
青函連絡船は、洞爺丸の事故などで、本での知識はいくらかあり、興味はありました。



内部には、昭和30年代の青森を再現した展示があります。それなりにおもしろい。



(左)こういうストーブは、大学にもあったし、時々見ていました。なつかしい。
(右)そういえば、籾殻の中に卵が入っているのは、市場なんかでよく見ました。これまた、なつかしい。




電車の窓に、鼻を押しつけているガキの人形。よくできています。



中では、青函連絡船の映画が上映されていました。時間が無くって、見られず。非常に残念です。
当時の船室なんかも見られるのかと思っていたら、見あたりませんでした。食堂や、展示施設がいくつかありましたが、内部はかなり作り替えられているような印象でした。



午後の予定に時間を追われ、両船とも、早足で見て回った感じです。あとで聞くと、聞けばボランティアの方がいろいろ懇切丁寧に解説してくれるそうです。特に、「宗谷」には、かなり関係の深い方がおられて、タローの話や越冬隊の話をしてくれるそうです。
機会があれば、もう一度ゆっくりと見学し、羊蹄丸の映画も見たい気がします。